建築以外の分野で活躍する、建築学科出身の人たち。音楽・デザイン・ファッションの分野で活躍する代表的な4人を紹介。

2023年10月6日

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※この記事はインタビューに基づいたものではありません。

 

建築のフィロソフィーを他の分野へと昇華。様々な世界で活躍するプロフェッショナルを紹介。


日本の大学の多くは、大学在籍時に学んだ専門分野とは全く関係のない企業に就職することが多い。例えば、法学部出身なのに広告代理店に就職したり、文学部なのにIT業界に入ったりと。しかし、建築学科の多くはそのまま建築業に就職することがほとんどで、たいていは組織設計事務所やアトリエ設計事務所、ゼネコンやデベロッパーに就職する。

そんな建築学科だが、学内の雰囲気に呑まれずに建築以外の業界へ進出し、今やその分野でのプロフェッショナルとして活躍する人たちがいる。

 

建築×音楽


ル・コルビュジェの下で学んだ音楽家、ヤニス・クセナキス

 

Sketch:曾原翔太郎

 

1922年にルーマニアで誕生したヤニス・クセナキスは、アテネ工業大学で建築と数学を学んだ。第二次世界大戦で反ナチスのレジスタンス活動に加わったことを機に、1947年にギリシャを脱出。アメリカに亡命を試みようと立ち寄ったパリに定住することとなる。一説によると、コルビュジェの下で働くことを理由に亡命したとも言われる。1958年のブリュッセル万国博覧会で、フィリップス館の建設に携わったとき、竣工した建築でエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽『ポエム・エレクトロニーク』が演奏され、後の音楽活動へと影響をもたらした。

 

実は、コルビュジェで有名なモデュロールは、クセナキスの数学的考案によるものでありコルビュジェのオリジナルではないそうだ。彼は、建築家として活動する傍らパリ音楽院で作曲を学んだ。そこで師事したオリヴィエ・メシアンに「なぜ数学を作曲に応用しないのか」と問われたことをきっかけに、数学的理論に基づいた作曲手法を考案した。

 

ヤニス・クセナキスによる『Pithoprakta』のグラフィカル楽譜

 

建築×作家×音楽


『0円ハウス』や『徘徊タクシー』などで知られる坂口恭平

 

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Sketch:曾原翔太郎

 

1978年に熊本で生誕し、石山修武に憧れて早稲田大学で建築を学んだ坂口恭平。卒業設計では「ホームレスの家の研究」を行い、そのころに撮った写真を集めて『0円ハウス』を出版した。通常、建築教育を受けた人が学生時代に設計した作品はポートフォリオで消費されて終わることが多いが、建物を建てることに関心を持てなかった坂口は、卒業設計を皮切りに作家としての活動を始める。『ユリイカ』を定期購読している建築学生は参考になるかもしれない。(2015年1月臨時創刊号で、坂口が特集されている。)

 

東日本大震災のとき、「新政府」初代総理大臣に就任することを宣言し、当時注目を浴びた。2012年8月には、アルバム『Practice for a Revolution』をリリースし、ミュージシャンとしての活動も開始した。最近はX(旧Twitter)で毎日パステル画を投稿している。今後は画家としての顔も持ちそうだ。

 

建築×ファッション×音楽


カニエ・ウェストの親友、ルイヴィトンのディレクターも歴任した、オフホワイトのクリエイティブデザイナー

 

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Sketch:曾原翔太郎

 

1980年にアメリカ・イリノイ州で生まれたヴァージル・アブローは、世界的ラグジュアリー・ストリートブランド『Off-White』のデザイナーとして知られる。

 

10代の頃は、マイケルジョーダンやガンズアンドローゼス、スケートボート等の所謂90年代ユースカルチャーに夢中になり、後のインタビューでは「10代の頃に夢中になったものが今の自分を形成している」と答えた。HIPHOPに影響を受けており、デザインの仕事を終えたらDJをやると言った。18歳の頃にはDJをはじめ、「ボトルを売っているクラブでトラヴィス・スコットをプレイした最初の子供たちの一人」と自称する。

彼はイリノイ工科大学という建築の名門校に入学し、レム・コールハースが設計した『マコーミック・トリビューン・キャンパス・センター』の影響でファッションに興味を持ち、Tシャツをデザインするようになったといわれる。

 

彼より3歳年上のカニエ・ウェストは、アカデミー・オブ・アート大学で絵画制作の授業を受けたのち、シカゴ州立大学へ編入して英文学を専攻していた。その傍ら音楽ヒップホッププロデューサーとしてシカゴのローカルアーティストに楽曲提供するなど、音楽の活動も行う。2000年代のヒップホップシーンの礎を築いたJay.Zの目に留まり、プロデューサーとして活躍した。その後、音楽に専念するために大学は中退している。カニエは、安藤忠雄の大ファンで知られている。

 

2002年ごろ、カニエのマネージャーを務めていたDon Cが、ヴァージルの働くシカゴのショップへ訪問する。そこで、ヴァージルとカニエは出会い、意気投合。2004年ごろからカニエのグッズやアルバムのアートワークを依頼するようになり、2007年には正式にクリエイティブ・ディレクターとしてカニエのチームDONDAに参入した。

 

2009年、ファッションの特別な教育を受けていなかった二人は、ラフ・シモンズへインターンを申し込むが落選する。そのかわりにFENDIでインターンを行うことになった。その後、NIKEとのスニーカーシリーズ「AIR YEEZY」をスタートさせ、ファッションブランド「Pastelle」を立ち上げた。Pastelleは、テイラー・スウィフトのスピーチ妨害事件が原因で頓挫してしまった。

 

2013年、『Off-White』設立。2014年にはパリコレクションで作品を発表した。2018年には、世界的ラグジュアリーブランド、ルイ・ヴィトンのクリエイティブ・ディレクターに指名された。

 

2021年11月、癌により死去。世界中のファッションファンを驚かせた。

 

ヴァージル・アブローは、建築を学びながら趣味のファッションにも全力で取り組み、偶然の重なりで世界的なファッションデザイナーとして活躍できたのであった。

 

建築のみならず、あらゆるデザインの分野


肩書は「デザイン・ストラテジスト」NOSIGNERのCEO・太刀川英輔

 

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Sketch:曾原翔太郎

 

1981年出身の太刀川英輔は、法政大学工学部建築学科(当時)を卒業後、隈研吾に師事するために慶応義塾大学大学院へ進んだ。隈研吾研究室在籍時には、個人名を出さずにNOSIGNERとして活動した。太刀川は、デザインという概念を「関係性をつくる仕事」と定義し、分野・領域にとらわれずにデザイナーとして活動している。

 

彼が法政大学に在籍していた時は、法政建築の黄金期と言われた。(近年では様々なコンペで法政の学生が受賞し、その時以来の黄金期が再来している。)法政で非常勤として活動していた隈研吾が慶応に研究室を開いたため、慶応の大学院へ進み、修士論文ではデザインをテーマに研究を行った。

 

グラフィック、建築などの領域を越え、次世代エネルギー、地域活性、SDGsなどを扱う数々のプロジェクトで総合的な戦略を描き、成功に導く。

 

彼のように、オーセンティックな建築設計手法の教育を行っている私大建築学科から慶応義塾大学に進学し、修士で起業する例は近年多く見る。その理由として、慶応義塾大学では「マーケティング戦略」「ベンチャー経営論」「ソーシャルイノベーション」「インターフェース設計論」など、様々な分野から多角的なカリキュラムを形成しているからだろう。

 


 

このように、学外での活動が仕事になり、建築学科時代の経験が他の分野で活かされる例が世界にはたくさんある。

ヴァージルのように、夜は音楽に酔いしれてみたり、太刀川氏のようにデザイン論についての本を読んでみるのもいいかもしれない。

 

著:CURIOATE共同代表 曾原翔太郎