【連載】建築学生の解体ー建築学生は教育にどう抗っていくのか?ー
2024年3月26日
序章 この連載を書くにあたって
執筆動機
2024年3月現在、筆者は芝浦工業大学の建築学部を卒業してから1年間フリーランスのデザイナーとして活動している。大学を出てからの1年間で、とりまく環境は大きく変化した。特に、いままで生活のメインであった「学生活動」では出会うことのなかった建築分野外で活躍する大人や、社会活動の目的が「建築設計」や「学問の習得」ではない人々と接することが多くなった。そんな毎日を過ごしてきて、無意識に「大学時代の環境はよくなかった」と感じてしまっている。そもそも、学生時代から「建築学生」というものを心ともなく嫌悪していた。当時はなぜ嫌悪しているのか言葉にすることができなかったが、先に述べたような卒業後の環境が言語化するきっかけを与えてくれたのである。そして、大学4年間の生活を忘れてしまう前に、この”気づき”を文字に残しておきたいという思いからこの連載を執筆することにした。
「建築学生を嫌悪している」と述べたが、決して建築学生を否定しているわけではない。筆者も、当時は講義が終わった後に図書館へ直行して、新建築やEl Croquis(スペインを代表する世界的な建築雑誌)などの専門誌や、有名建築家の著書を読むなど、積極的に「建築学生」していた。しかも、それはつまらないものでも無理強いにやらされていたことでもなく、設計課題で学内優秀作品に選ばれるために勉強熱心でモチベーションが高かったのだ。
とりわけこの連載を読んでほしいのは、建築学を一通り学んで優秀作品をとったりコンペで受賞したりしている学部3年生、卒業制作では奮わず建築モチベが下がっている次期大学院生だ。ちなみに、建築教育を受けていなかったり、新しく建築学科に入学する読者の方々にむけて、専門用語や建築業界の通例などについては青字にしている。そこをクリックすれば詳細について学べる。また、建築学生を解体したいと思うに至るまでに読んだ著書を紹介していくので、読みたい本を探している方にもオススメである。
積極的に建築学を学んでいる読者にとって「建築学生の解体」というタイトルを見て“アノ”本を思い浮かべただろう。日本を代表する建築家・磯崎新の名書『建築の解体』、そして磯崎の著書をオマージュした松村淳による『建築家の解体』、筆者が学生時代にインターンとして従事したVUILDのCEO・秋吉浩気による『建築家の解体』だ。
磯崎の「建築の解体」は、それまで建築業界のトレンドであったモダニズムが終焉し、ポストモダンが始まるといった内容である。彼はポストモダン関連の本を読むと必ずといっていいほど出てくる人物だ。松村の「建築家の解体」では、そのタイトルのとおり従来の建築家像が解体され、新たな建築家という概念が生まれるということが書いてある。秋吉の「建築家の解体」では、近年急速に発達しているデジタル建築の潮流について、世界中の建築家とインタビューするものだ。タイトルが同じこれら2つの本は、松村のものが2022年6月に、秋吉のものが2022年4月に刊行されている。たった2カ月の間に同じタイトルの本が出版されるのは異例の事態であるが、たった2カ月で執筆から出版までできるわけがないので、ほんとうに偶然タイトルが被っただけなのである。この事象から、2022年は建築家を解体するという運動がおこった歴史的な年といえるかもしれない。
これら3つの著書は、これから建築の道に進む学生たちには必読といえるだろう。
第1章 建築家を志すこと
建築家を志すきっかけとなった幼少期
筆者は、鹿児島県の本土最南端に位置する南大隅町という場所で中学生まで過ごした。当時は人口1万人に満たない田舎で、今ではその人口は7000人台と人口減少と超高齢化が著しいムラのようなところである。我が家は「ねじめ荘」という小さな旅館を営んでいて、女将としてひとりで旅館を切り盛りする祖母と母と私の3人で暮らしていた。旅館は約1,500㎡の敷地の中に、延床380㎡ほどの木造建築と280㎡ほどの日本庭園からなる旅館部分、320㎡ほどの駐車場、520㎡ほどの畑という3つのエリアに分かれていた。
ねじめ荘周辺の航空写真(2008年)
国土地理院地図より
赤線部上が旅館エリア、左が駐車場、右下が畑
小学校低学年のときに、畑エリアに8畳ほどのログハウスが建設された。簡単に言えば“離れ”だが、結果的に出来上がったものは電気も水道もない、夏は暑くて冬は寒い小屋のような建物だった。しかしながら幼い子どもからすれば、家族のいない屋根のある空間は特別なものである。そこは「森ハウス」と命名され、小学校が終わったら友人たちと森ハウスに集って人生ゲームやトランプをして遊んでいた。
森ハウスの建築が決まり、畑では地鎮祭が執り行われた。そこから毎日、汗水たらしながら職人さんたちがコンクリートを流して基礎をつくったり、骨組みを組んだりしているのを眺めるのが楽しくなっていた。そんな私を見かねたのか、職人さんがこっちに来て「壁と屋根を貼る作業を手伝ってほしい」と言うのだ。いわれるがままに玄翁(げんのう)と釘を渡されて、印がついている箇所に釘を打っていくのはとても楽しい経験だった。あとは、耳にエンピツをひっかけて鉢巻を締めている大工さんの真似をするほど、家を造る職業の人に憧れていた。
そこから、テレビで放送されていた「大改造 劇的ビフォーアフター」を見るようになった。番組では「匠」と呼ばれるプロが、施主とのコミュニケーションを通しながら様々な問題をうまく解決していく。番組終盤のビフォーとアフターをダイジェストで流す場面はそれほど興味がなく、古い建築がどのようなストーリーを経て完成まで近づくのかの過程を見るのが好きだった。ああ、やっぱり家を造るひとはカッコイイ。そう思っていたのだが、母から衝撃の一言を投げられる。「あんたは大工さんじゃなくて匠になりたいんだね。」と。幼い私には【匠】と【大工】の違いを全く理解していなかった。母は、運動音痴で泣き虫だった私には、上下関係が厳しい大工は無理だと悟ったのだろう。建築士になったほうが良いとアドバイスしてきた。(ビフォーアフターでの匠とは、設計をする建築士のことを指す)
そこから、カレンダーの裏紙に空想の平面図を描いたり(もちろん躯体の厚みなど考慮されていない単線で描いたもの)、段ボールを使って瓦屋根建築の模型をつくったりして遊んでいた。このときにはすでに建築士になることが将来の夢だった。
将来の夢が建築士から建築家へ変わった中学時代
中学は、地元の公立中学校に入学した。そのときはすでに、周りの大人たちは私が「建築士」を志していることを皆知っていた。そこでお世話になっていた知人が、とある本をプレゼントしてくれたのだ。それが、安藤忠雄の『仕事をつくる』である。本を読むのが嫌いだった私は、強制的に読書をしなければならない朝読書の時間に少しずつ読み進めた。
これは私の人生に大きな影響を与えた。安藤忠雄は、大改造劇的ビフォーアフターで見てきた匠よりも、もっと上の神様のような存在に見えた。将来の夢が「建築士」から「建築家」へと変わった瞬間だった。高校生ボクサーから大学に進学せずに独学で建築家になったことで知られる安藤だが、実は京都大学の建築学科の講義に潜っている。(本書にもそのような記載がある)
建築家という存在について興味がでた私は、他の建築家についても調べた。当時、日本で誰もが知る建築家といえば、晩年に積極的にメディア露出した黒川紀章である。黒川紀章のWikipediaを読んでいると関連項目に「槇文彦」「磯崎新」「谷口吉生」という聞いたことがない名前があったのでそれらについても調べると、一つのことがわかった。
みな、京大・東大・慶応などの有名大学を出ている。
松村淳の『建築家の解体』でも、このような記載がある。
-(前略)彼らに共通することが一つあることに気づいた。それは学歴である。端的にいえば、「東大卒」という学歴である。丹下も、黒川も磯崎も、みな東京大学の出身である。-
たまたま中学での成績は悪くなかったので、県内でも有数の進学校の普通科に入り、有名大学へ入学することを心に決めた。
建築家になるのは賢くないと悟った高校時代
南大隅町という田舎から県内屈指の進学校へ進学するのは、私の力では及ばなかった。鹿児島県では「学区外10%枠」という制度があり、田舎の学生が中心部の公立高校に入学するには定員の10%に入り込む必要がある。中学での成績はそこそこだったが、県内全域に目を向けるともっとレベルの高い生徒はいっぱいいたので、自称進学校と言われる鹿児島中央高校へと進学するのが精一杯だった。ここで田舎を出て下宿生活を始める。地方の自称進学校は粗末なもので、0限から7限までの8コマ授業に加え、部活に入らないと人権を獲得できない風潮があった。それに加えて大量の課題があったので、好きなことをする時間なんてとれないのである。だからいつの間にか建築家になりたいという野望は薄れていっていた。その代わりに、給料の安定性と受験の相対的な難易度から薬学部を志望した。
鹿児島中央高校は、鹿児島の大学受験界隈では「鹿児島大学の予備校」と揶揄されるようなところで、課題の多さやコマ数の多さに比べて学業のレベルは地方国立程度である。たまに九州大学などの旧帝大に受かるヤツはいたが、国語の成績が絶望的だった私には国立なんて無理なのではと考え始めた。しかも薬学部は地元の鹿児島大学にはなく、最低ランクでもかなり頭のいい金沢大学だった。それに加えて、化学よりも物理が好きだったので薬学部は向いていない。結果的に薬学部を志望したのは1年後半の進路相談の時だけで、2年で物生選択を経験して建築学科が性に合っていると答えを出した。
それ以降の進路希望では、建築教育の名門と評され国語が受験科目にない早稲田大学を第一志望とした。鹿児島は典型的な国立至上主義で、九州大学>早慶という感覚を植え付けられていた。実際には早稲田の建築なんてめちゃくちゃ偏差値が高いのだから合格するわけがない。合格点には遠く及ばず、浪人することになった。鹿児島で予備校に行くといえば、監獄といわれる北九州予備校に行くのが普通だが、担任の先生の勧めもあって東京の駿台予備校に通うことになった。
文:曾原翔太郎
次回、第2章。大学に入学する話から。