『線を引く。』建築学科で繰り広げられるミステリー小説
2025年7月1日
第一章
図面の端に名前を書くのは、たいてい最後だ。
3月27日――福岡
「ちょっと、日葵! その眉毛どうにかしなさい! 東京行くんでしょ、あんた!」
朝から母は、声量フルスロットルで飛ばしていた。天神のパルコでアパレル販売をしている彼女にとって、娘の出発とは“東京コレクションへの出陣”と同義らしい。
「昨日アイシャドウ買ったって言ったじゃん……」
「化粧品は揃えるだけじゃダメなの! 使ってナンボ!」
トーストをかじりながら、私はテレビの天気予報に目をやる。
福岡は晴れ。東京は、くもりのち晴れ。
なんとなく、意味のありそうな予報だった。
母のようにはなりたくない、という気持ちは昔からあった。でも、彼女のエネルギーはどこかうらやましい。私は母を反面教師に育ち、静かに、しかし臆病に、世の中を測るタイプになった。
そのくせ、自分の価値観から外れるものには敏感だ。クラスで“個性的”を盾に派手なシャツを着てきた男子や、SNSで“映える”だけのスイーツを投稿する女子たちには、だいたい一言。
(うわ、ダサ……)
もちろん、口には出さない。にこにこと愛想よく、うんうんと話を合わせる。それが私の処世術だ。
だから、東京に行っても、きっと私は――うまくやる。
……と思っていた。
**
4月12日――東京・入学式から一週間
建築学科は、想像よりも“語る人”が多かった。
「都市に生きる人間の心理を、空間設計に反映したくて」とか、
「社会構造に対するアプローチとしての建築を」とか。
正直、初対面でそんな話されても反応に困る。私?
「福岡から来ました。松本日葵です」だけで充分でしょ。
そう思ったけれど、やっぱり私は空気を読みすぎる性格なので、うなずきながら愛想笑いを浮かべていた。
(自己啓発系のスピーチかな……ダサ……)
周囲の服装も、想像と違った。もっと洒落た学生が多いかと思いきや、なんかこう、古着と無頓着のミックスというか。黒とグレーのモード服に赤リップの私は、たぶん完全に“浮いてる側”だ。
ファッションの話ができる人がいない。ちょっと絶望しかけていた。
そのときだった。
**
製図室の隅。まだ使い慣れていない新しい製図セットを並べていた私の視界に、妙な男が入ってきた。
だぼだぼのスウェットにフーディ。ヘッドホンを首にかけ、指定とは違うスケールを使い、勝手に線を引いている。
誰? あれ?
新入生? 本当に?
興味というより、確認する必要性に迫られて、私は話しかけた。
「そのスケール、どこで買ったの?」
彼は面倒くさそうに顔を上げ、視線だけで応じた。
「は? なんでお前に言わなきゃなんねーの」
……は?
心の中でだけ呆れて、でも表情は壊さない。私は“話の通じない人”に慣れている。
「探してたんだよ、同じの。レモン画翠にはなかったから」
彼は鼻で笑った。
「画翠は学生御用達って感じだもんな。これは下北で買った。中古」
下北。なるほど、癖が強いのにも納得だ。
「……名前、聞いてもいい?」
「渡辺。直哉。で、お前は?」
「松本日葵。友達はいない。今のところは」
「ふーん。さっき女どもと喋ってたじゃん」
「喋っただけ。あれは、“友達ごっこ”ってやつ」
「……めんどくせえ」
そう言って彼はまた図面に戻った。
でも、私は思った。
こういうやつ、絶対トラブルの火種になる。
でも同時に――目が離せない。
**
直哉とは、それからちょくちょく話すようになった。
彼はバーカンのバイトをしていて、大学外に居場所があるタイプ。学科内では基本浮いていて、でも設計のときだけ異様に集中する。無口で、ぶっきらぼうで、でも線が異様に正確。
気づけば、連絡を取るようになり、気づけば、夜中に「製図手伝え」とか言って家に来るようになった。
「今日泊まる。飯食ってねー」
「お風呂は?」
「めんどい。タオル貸せ」
「……そろそろ家賃折半しない?」
「ガタガタ言う前に課題終わらせろ」
口は悪い。でも、それを正面から受け止めるほど私は素直じゃない。
むしろ、ああ、この人は言葉で人を試すんだなと思った。
それでも、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、少しだけ楽になれた。
**
こうして、東京の生活が始まった。
建築と、図面と、よくわからない人間関係。
名前のつけられない関係と、図面に書かれていない構造。
何かが、ゆっくり始まっている気がした。
深夜の図面と、カフェオレの温度
春学期が始まってしばらく、建築学科の生活にも、なんとなく慣れてきた。
あいかわらず課題は多い。だが、模型をつくるたび、疲れるよりも“線が立ち上がる瞬間”が面白くて、寝不足も案外悪くないと思ってしまう自分がいる。
そして私は、銀座でバイトを始めた。
**
喫茶店「ル・ソレイユ」は、中央通りから少し外れたビルの二階。テナント案内のプレートにも名前が出ていない。木のドアと金文字の表札だけが目印の、いわゆる“知ってる人しか来ない店”。
面接のとき、マスターは経歴をざっと見てから言った。
「東京都都市文化大学……建築学科、か。珍しいね、うちでは初めてかも」
「ご存じなんですか?」
「昔、あそこの先生と仕事したことがあるんだよ。“氷川”って人。理論家で、設計もやってる。今でも『新建築』で連載持ってるんじゃなかったかな」
マスターの言い方には、若干の間があった。
まるで「だから何か起きても驚かないよ」と、無言で伝えてくるような。
それがどこか気になったけれど、私はあいまいに笑った。
(ああいうタイプ、情報だけ妙に鋭い。ちょっと苦手かも)
制服は濃紺のエプロンとベージュのシャツ。銀座らしい控えめな落ち着きがある。
カウンターの客たちは新聞と煙草、奥の席には「今日も徹夜だよ」なんて呟く編集者。大学と違って、こっちの大人たちは何かを言い切らない。その空気が、私にはちょうどよかった。
**
夜。製図室。
「もうちょい上。……いや、違う、そこは面の方向がズレてるだろ。やり直し」
「はいはい」
直哉は設計課題になると、人格が数段くらい悪くなる。製図はともかく、模型になるとほぼ“作業指示員”だ。
「お前さ、貼るのだけは上手いよな。脳死で貼れる体質?」
「ありがとう。殺意がわいたのでカッターで手の甲でも切りましょうか」
「……怖ぇな、お前、案外」
模型の外周を仕上げているとき、彼はごそごそと自分のカバンからスケールを取り出した。
「ちなみにこれ、昨日の夜に買った。画翠じゃ売ってなかったやつ」
「どこで?」
「下北」
やっぱり。彼の道具には一貫性がない。けど、線だけは抜群にうまい。
「君さ、模型は苦手でしょ」
「うるせえ。スチレン切ってる時間があったら図面に使う」
そう言いながら彼は手を止め、ぽつりと付け加えた。
「……手先はお前の方が器用だしな」
その一言のせいで、私はそれ以上文句が言えなくなった。
**
日付が変わる頃、課題の図面を印刷して帰る途中、私はなんとなく聞いてみた。
「ねえ」
「ん?」
「うちらって、さ」
「は?」
「……その、他人から見ると、どう見えるのかなって」
「どう見えようが関係ねーじゃん。気にすんな」
直哉はポケットに手を突っ込んだまま、前を見たまま言った。
「俺は媚びるのがダセぇと思ってる。お前は?」
「……さあ」
本当は聞いてみたい。
“私たちって、どういう関係?”とか、もっと陳腐な言葉で。
でも私は、それを口にするほど素直じゃないし、彼がその問いに答えるとは思えなかった。
私たちは、そういう温度で続いている。
**
翌日。大学。
製図室の掲示板に、新しい課題要項が貼り出された。
その下に――見慣れない図面のコピーが一枚、はさまっていた。
明らかに誰のものでもない構造。課題にも該当しない。だが、それは奇妙に“緻密”だった。
無数の階段が重なり、途中で終わり、また別の方向へつながる。終点がない。
描いた人が、何を意図したのか分からない。だからこそ気味が悪い。
「ねえ、これ誰の?」
近くの先輩が覗きこむ。
「……あれ、田口先輩が描いてたやつに似てない?」
「田口……最近見ないな。なんか就活って聞いたけど」
「設計課題、途中までやってたのに?」
そんな会話が、製図室のあちこちで飛び交っていた。
私はそっとスマホを取り出して、その図面を撮影した。
まだ、それが何を意味するかはわからない。
けれど、何かの始まりのような気がした。
(つづく)
監視装置としての建築と、煙のような違和感
設計課題の提出が終わったあとの製図室には、妙な静けさがあった。
机の上にはスチレンの切れ端が残され、床にはマスキングテープの芯が転がっている。空気にはスプレーのりの匂いがまだ残っていて、それはガソリンのように癖になる、独特な匂いだった。
私は、あちこちの片付けを手伝いながら、先輩たちの模型が詰まった棚に目をやった。
そして、見覚えのない黒い箱が最下段に押し込まれているのを見つけた。
埃をかぶっている割には、最近触られたような痕がある。私は少し躊躇してから、そっと箱の蓋を開けた。
中には、やけに黒い模型が入っていた。
階段だけで構成された建物。柱も壁もなく、交差する階段が空間を埋めつくしている。最上部には、ただ小さな台座のようなものがぽつんとひとつ。
思い出す。先週の講義、「建築設計論Ⅰ」で学んだばかりだった。
パノプティコン。
中央の監視塔から、周囲を常に見張れるよう設計された刑務所。
「監視されているかもしれない」という意識が、被監視者に自律的な規律を生む。
だけど、この模型には“塔”がない。ただ、無数の階段が、どこへも繋がらずに続いている。
なのに――見られているような気配がある。
まるで建物そのものに、視線のような機能が埋め込まれているみたいだった。
「それ、勝手に触んなよ」
背後からぶっきらぼうな声。振り返ると、直哉が立っていた。
「……心臓止まるかと思った」
「嘘つけ。止まってねーだろ」
彼は私の隣に立ち、模型に目を落とした。
「それ、氷川スタジオの課題だったやつ。俺んとこの棚にあった」
「知ってるよ。あんた、今回の課題、氷川スタジオだったじゃん」
私はわざと目を細めて言った。
「模型ほとんど私に作らせたくせに、忘れたとは言わせないから」
「……作るのは苦手なんだよ。頭ん中にはあるんだけどな、形が」
「そういうの、ただの言い訳って言うんだけど」
彼はふっと笑ったが、それ以上は言わなかった。
「それ、田口って先輩の模型らしい。氷川のところで配属されてた院生。俺、直接は知らないけど」
「田口先輩って……最近見なくなった人?」
「見なくなった、っていうか……失踪したって話」
「退学じゃないの?」
「違う。学籍は残ってる。でもゼミにも来ないし、連絡も取れない。教授も何も言わない」
建築学科では、“静かにいなくなる”こと自体は珍しくない。課題についていけなくなって、音もなく消える学生もいる。
でも、失踪――となると話は別だ。
「この模型、パノプティコンに似てるよね。講義で出てきたやつ」
「うん。でも塔がない。監視塔の代わりに、あの椅子っぽいやつがあるだけ」
「誰がそこに座るんだろうね。見張る人? それとも、見られる人?」
「さあな。でもな、これ、何が怖いって――どっちにもなれるってとこだよ」
**
夜、直哉からメッセージが来た。
《さっきバイト先に妙な客来た。名刺出してたけど、あれ、大学の関係者かもしれない》
《どんな人?》
《スーツがやたら高そうだった。あと、名刺の端に“氷川”って名前が手書きでメモってあった》
私はスマホを持ったまま、しばらく指を止めた。
彼のバイト先は、紹介制のクラブ。普通の学生が働くには向いてない。でも、直哉は妙に場慣れしている。そして、そういう場所では、たまに“人の名前だけが先に動く”ことがある。
それがどんな意味を持つのかは、まだわからない。
だけど、こうして少しずつ、いろんなものが結びつきはじめている気がした。
構造、設計、名前、そして消えた人。
誰かが何かを、形にして残そうとしていた。
あるいは、誰かが何かを、隠すために壊そうとしていた。
そしてそのどちらにも、建築が使われている。
(つづく)
夜の断面と、名前を持たない会話
――直哉
渋谷の地下2階。
コンクリート打ちっぱなしの通路を抜けた先にある、会員制クラブバー「arc」。店名のないドアの前には、控えめなチャイムだけがぶら下がっている。
俺はここで、週に二回、深夜帯のバイトをしている。
洗い場とフロア対応。カクテルは作らせてもらえない。担当はいつも、無口なプロのバーテンダー。氷を入れる音が、店のBGMよりもずっと印象に残る。
この店に来る客は、無駄に喋らない。それがルールらしい。
でも、今夜の二人組は違った。
明らかに“場慣れしていない”のに、変な落ち着きがある。
ひとりは五十代くらい。髪にうっすら白が混じり、スーツの肩に目立たない仕立て糸の跡。もう一人はやや若く、薄いフレームの眼鏡に口数の少ないタイプ。手元には、使い込まれた黒革の名刺入れ。
常連ではない。
でも、あきらかに“何かを調整する側”の人間。
ふたりは奥のカウンターに腰を下ろし、低い声で話しはじめた。内容は聞き取れない。が、時折交わされる単語だけが耳に引っかかる。
「例の図面」「発表予定」「氷川」「確認済みの構造案」「ZK」
ZK。
その二文字だけで、胸の内がざわつく。
氷川――氷川准教授の名は、今では設計課題の端々でさえ重たい意味を持っていた。
男の一人が、名刺をテーブルに伏せて置いた。その裏面に走り書きされた文字。
“氷川”
……やっぱり関係している。
「“あの子”の動きは?」
「追ってる。だが、大学内部にも残ってる」
「じゃあ潰すしかない。図面も、ログも」
その一言に、無意識に食器を落としそうになった。
慌てて拾い直し、何も聞いていないふりを貫く。だが、耳だけは研ぎ澄まされていた。
「田口の件もまだ収まっていない。下手に動けば逆に目立つ」
「氷川はどうする?」
「“静かに消える”のが理想だが……」
そのとき、バーテンダーがさりげなく俺の方を見て、グラスを受け取る合図をした。俺は一礼して引き下がる。距離があるのに、心拍だけが近くなる。
この会話が意味するものを、俺はまだ知らない。
でも、“図面”と“消す”という言葉が同じ席で出たとき、それはもう建築ではない。
――それは、構造された何かだ。
**
――日葵
「静かに、消える……?」
その言葉が、夜のノートの余白に浮かぶ。
私は直哉からのメッセージを読んだ直後だった。
《さっきの客、名刺の裏に“氷川”って書いてあった。あと“ZK”。潰すって言ってた》
潰す。
大学で交わされるには重すぎる言葉。でも、今の私には違和感がなかった。
机の上には、例の黒い模型のスケッチ。構造だけが浮かび上がる、匿名の迷宮。
視線だけが移動できる設計。目的のない階段。そして、誰かが“居る”ための小さな椅子。
私はそのスケッチを破らないように、そっとノートに挟み込む。
きっとこの模型も、あの図面も、誰かが“見られる”ことを想定していなかった。
なのに、今は私の視界にある。
ならば、私はそれを“見る側”に立つしかない。
直哉は多くを語らないけれど、彼の視線の先に何かがあることだけはわかる。
私たちは、たぶん――
同じ何かに、気づき始めている。
(つづく)
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