【連載】建築学生の解体(2)ー建築学生は教育にどう抗っていくのか?ー

2024年5月9日

この連載は、芝浦工業大学の建築学部を卒業してから1年間フリーランスのデザイナーとして活動している筆者が、自身が体験・経験した事象をふまえて「建築学生を解体」していく記事である。

 

大学を出てからの1年間で、私をとりまく環境は大きく変化し、「学生活動」では出会うことのなかった建築分野外で活躍する大人や、社会活動の目的が「建築設計」や「学問の習得」ではない人々と接することが多くなった。そんな毎日を過ごしてきて、無意識に「大学時代の環境はよくなかった」と感じてしまっている。そもそも、学生時代から「建築学生」というものを心ともなく嫌悪していた。当時はなぜ嫌悪しているのか言葉にすることができなかったが、先に述べたような卒業後の環境が言語化するきっかけを与えてくれたのである。そして、大学4年間の生活を忘れてしまう前に、この”気づき”を文字に残しておきたいという思いからこの連載を執筆することにした。

 

「建築学生を嫌悪している」と述べたが、決して建築学生を否定しているわけではない。筆者も、当時は講義が終わった後に図書館へ直行して、新建築El Croquis(スペインを代表する世界的な建築雑誌)などの専門誌や、有名建築家の著書を読むなど、積極的に「建築学生」していた。しかも、それはつまらないものでも無理強いにやらされていたことでもなく、設計課題で学内優秀作品に選ばれるために勉強熱心でモチベーションが高かったのだ。

 

とりわけこの連載を読んでほしいのは、建築学を一通り学んで優秀作品をとったりコンペで受賞したりしている学部3年生、卒業制作では奮わず建築モチベが下がっている次期大学院生だ。ちなみに、建築教育を受けていなかったり、新しく建築学科に入学する読者の方々にむけて、専門用語や建築業界の通例などについては青字にしている。そこをクリックすれば詳細について学べる。また、建築学生を解体したいと思うに至るまでに読んだ著書を紹介していくので、読みたい本を探している方にもオススメである。

 

序章・第一章はこちらから

 

 

第2章 都会で建築を学ぶ


 

都会の洗礼を受けた浪人期

 

早稲田の建築学科を志望していた私は、浪人期に駿台御茶ノ水のデッサンの授業を受けることになる。早稲田建築では、数学・物理・化学・英語に加えて「空間表現」というデッサン科目があり、それを対策するための選択科目だった。クラスは15名程度の少人数であったが、そこで私の人生を大きく変えた友人との出会いがあった。彼のことをHと呼ぼう。Hは自己紹介で「服が好きです」と言っていた。田舎でアパレル出身の母に育てられてソコソコのファッションセンスに自信があった当時の私であったが、彼から繰り出されるファッションの用語は知らないことだらけだった。そう。東京は芸術も音楽もファッションも最先端なのだ。上京一年目では太刀打ちできるはずがない。

 

Hに影響されて、息抜きにFASION PRESSFASHION SNAPを購読するようになり、プレタポルテ・コレクションのたびにルックをチェックする習慣がついた。同時に、同じ寮に住んでいた友人たちもそのような習慣がつきはじめ、パリ・ファッションウィークの期間には毎朝食堂で一緒に朝食を取りながら「昨日のNAMACHEKOみた???」などという会話を繰り広げていた。まったく勉強しろといった感じである。

(当時のファッション・シーンでは、スウェーデン初のNAMACHEKOが圧倒的支持を受けていた)

 

その年は、DIOR HOMMEのアーティスティック・ディレクターにキム・ジョーンズが就任したファーストコレクションが発表された。当コレクションで最もリマーカブルだったのが、アシンメトリーのテーラードセットアップだった。それに一目ぼれした私は、後に貯金をはたいてそのセットアップを購入して成人式に臨んだ。

 

 

そして建築学科へ入学する

 

早稲田に入学することは叶わず、芝浦工業大学へと進学することになる。浪人のときのHとの出会いのように、恥をかかないようにファッションと建築をぬかりなく勉強した春休みを過ごした。

 

大学進学前の春休みは人生で最も自由な時間と言えるだろう。私は、代官山の蔦屋書店に行っては建築の本やファッションの本を読み漁っていた。今でも鮮明に覚えているのは、「妹島和世+西沢立衛読本」を3周くらい読んだこと。この本を読んで妹島和世がコムデギャルソンの服を愛用しているということを知った。コムデギャルソンは、ヨウジヤマモトと共に華美でラグジュリアスなスタイルが主流だった70年代までのモード界に革新的な一石を投じたブランドである。漆黒のテキスタイルを破いたようなデザインは「脱構築」というファッション産業における新たな概念を生み出した。デザイナー・川久保玲のこうした手法は、後のマルタン・マルジェラに強い影響力を及ぼす。

 

妹島氏は、日本女子大学在籍時から今まで、ワードローブの半分以上がギャルソンが占めているらしい。筆者が見る限り、様々なメディア等で露出した際の彼女のアウトフィットは、コムコム(COMME des GARÇONS COMME des GARÇONS)を多数着用しているように見える。メインラインである「COMME des GARÇONS」のような攻撃的なルックは着用しているイメージがなく、よりフェミニンな印象を表現しているのだろう。女子大出身の彼女らしい。いや、GARÇONS(フランス語で少年の意味)らしい無邪気で奔放な建築設計をしていることのアピールなのだろうか。

 

 

妹島和世を知り、今度はコムデギャルソンそのものに興味がでた。そこで読んだのが『相対性コムデギャルソン論』という本だ。この本では、複数のファッション領域外のデザイナー・建築家などが各々の観点からコムデギャルソンを相対的に評論していく。手放しに賞賛されているコムデギャルソン像を一部批判している部分があるのがとても面白い。

建築設計者であるのならば、ファッションの入り口としてこの本を強くオススメする。なかでも、五十嵐太郎と浅子佳英による「少女性から思考する建築とファッション」のセクションは非常に興味深い。まさか建築の内容が記載されているとは思わなかったのでとても驚いた。

 

ファッションと建築は、かねてから近しいトピックとして語られている。19世紀のドイツを代表する建築家ゴットフリート・ゼンパーや、「装飾は罪悪である」という主張で建築業界に大きなインパクトを与えたアドルフ・ロースもファッションを引用して建築論を語っていた。序盤の坂牛卓松田達による対談のセクションでは、ギャルソンのデザイナーである川久保玲の「コムデギャルソン像」の作り方とル・コルビュジェの建築設計手法が類似している点について話されている。

 

通常、アパレルのメゾン(デザイナーがトップに立つ会社や店のことをメゾンと呼ぶ)では、デザイナーが描いたスケッチをパタンナー(服の型紙をつくる人)に渡して形にしていく。しかし、コムデギャルソンではデザイナー・川久保玲はスケッチを描かないというのだ。コンセプトやイメージを言葉でパタンナーに伝える手法をとっている。実は、コルビュジェも同じ手法をとって建築を設計してきた。ブリュッセル万博でのフィリップス館を設計したとき、出張でインドに行く直前に、助手ヤニス・クセナキスにクシャっと丸めた紙を投げ、それをクセナキスが解釈して万博のパビリオンは完成した。日本でのコルビュジェ建築・国立西洋美術館でも、弟子である前川國男に寸法を入れていないドローイングを日本に送り、それを前川自身の解釈で施工図へと落とし込んだのだ。ちなみに、私の母校である芝浦工業大学の建築学部では、1年での表現課題の一つとして半期かけて前川事務所から提供された国立西洋美術館のトレースや、それをモチーフにした水彩表現をこなす。

 

以前に書いたヤニスクセナキスに関する記事もご覧いただきたい。

建築以外の分野で活躍する、建築学科出身の人たち。音楽・デザイン・ファッションの分野で活躍する代表的な4人を紹介。

 

実際、ディヤン・スジック著の『川久保玲とコムデギャルソン』のなかで、川久保はコルビュジェを賞賛している。

 

しかし、昨今では木質空間などの温かみにある建築が流行で、モダニズム時代のような力強さはさほど求められていないように思える。建築がモダニズムのようなエクスクルーシブな雰囲気から徐々にインクルーシブになっていった2000年ごろから、コムデギャルソンも接客が柔らかくなったというのだから面白い。

 

中盤での五十嵐太郎浅子佳英による対談の場面では、妹島和世と川久保玲の類似性について語られている。90年代までは男性的で力強い建築が求められていたなかで、妹島和世の建築は女の子っぽくてペラペラだと揶揄されていた。そういった潮流のなかで妹島和世を研究して、賞賛したのが五十嵐太郎である。彼の妹島論では、異常なまでに反復された厳密なグリッドで統制された妹島の建築は、ルールを徹底したがゆえに最終的に逸脱してしまうのだという。

これは勝手な私の解釈だが、妹島の建築はその徹底的な直交座標グリッドによる設計であるがために、物理的な距離間隔を印象付けられる。しかし、透明・半透明・テクスチャのあるガラスを多用することによって視覚的な距離が物理的な距離とは分断された感覚になる。妹島建築は、カタチの部分でルールを徹底的に守っているため、仕上げの部分で自然と逸脱してしまっているのではないだろうか。

 

最も興味深かったのは、2000年代にギャルソンを着用するデザイナーが増えたのと同じように、建築学生がプレゼンテーションシートにSANAAが使う人添景を入れるようになってきたというとだ。前者が「ギャルソン・チルドレン」といわれたように、後者の人添景は「SANAA人間と呼ばれる。このムーブメントは、それまで男性的で力強いことが美とされていた潮流から、女性的・少年的なものが愛されるようになったのが原因で起きたのだろう。

 

SANAA人間 曾原翔太郎

SANAA人間

 

 

相対性コムデギャルソン論を読んで、建築と服飾が近しいものであると強く認識した私は、ファッションの話ができる学生がたくさんいることを期待していた。しかし、現実は期待を裏切る。

実は、駿台で一緒だったHと、どうやら予備校で同じクラスだったらしいAも芝浦建築に進学していた。彼らは浪人時代からファッションに対する愛情がもっぱら強かったので、彼らと学生生活をともにするようになる。自分でいうのもアレだが、本当に我々は排他的な態度をとっていて、学部3年半ばになるまでほとんど交友関係は広がらなかった。

 

なぜそれほどに排他的な態度をとっていたのか。それはファッションの話ができないということだけでなく、いろいろ考えるところがあったからである。次回、第3章では実際に建築学科で体験したことを引用し、私が思う「建築学生」を解体していく。

 

第3章はこちらから

 

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